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P3M2(劇場公開版)感想など
「PERSONA3 THE MOVIE #2 Midsummer Knight's Dream」観てきました。
上映1時間前から動悸と胃痛と不安が止まらずにもう帰りたいって相方に駄々をこねたりしましたが無事に劇場まで辿り着けたので良かったです。
以下ネタバレを多く含む感想ですので折り畳んでおきます。



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諸注意のベルベットルーム住人コントのお蔭で屋久島辺りまではヘラヘラ笑いながら観ました。上映終了後は何も考えられず言葉も出ずメモを打つ手も震え……辛いとか悲しいとかよりも心にぽっかりと穴が空いてしまったような気持ちでした。いるべきひとが、いなくなってしまった、という感じで。
観ながら要点を箇条に頭でまとめていたんですけど途中で吹っ飛びました。以下覚えていることを。

・!!!9月戦での荒真の背中合わせ!!!
・8月の天田と荒垣の関係は10月までにどうやって畳むのかとその風呂敷の広さを心配していたが、9月の満月戦、荒垣の暴走と天田のフラッシュバックにより関係性が破局するという演出で、原作よりも更にエグい描写になっていた。
・荒垣かわいいメモリーズはずるい(コロマルの顔モフモフ!)
・荒垣が死んだ時、真田の腕の中にいた。手を握りつづけて。荒垣から力が抜けて、握った手が緩んで、真田は荒垣の手をぎゅっと握って震えた。
・あまり好きじゃない告別式がすっ飛ばされたかと安心していたら延期していただけでウッとなった
・最後の順平がよかった(全体的に順平よかった/チドリとの出会いのシーンは美しかった)


■物語を牽引するための役割|
今作(劇場版)の「主人公」は、あくまでも「結城理」であり、原作の主人公とは異なる可能性の一つとしての平行世界なのかな、と思いました。もちろん主人公以外のキャラも。
第2作での結城理くんは前作よりもより人間らしくなったけれどかなり好戦的に見えた/戦うことが存在意義/仲間を守りたいが影時間が消失するのは嫌・自分が必要とされている理由をS.E.E.S.の活動に見出している≠必要とされなくなるのが(自らの感知し得ないところで)嫌だと思っている?
「何もしなければ、何も変わらない。選ばなければ、進まない」という結城理くんのある種の選択肢の放棄(≠「どうでもいい」)は結果として変化を止められなかった。どうでもいいということもまた選択肢のひとつだった。結城理くんが選んだものこそが道となって続く。

■選択肢を違えるということ|
AorBor放棄という3つの選択肢の最適解はその瞬間には存在せず、また、何れかを選択してから後の後悔としての「あの時ほかの行動を選択していれば」という考えは、所詮IFの領域であり、他の行動を選んだとしても結果が改善されるということは保証されず、また、可能性としてもそれにかけるべきではなく、後悔も(次回への反省をするということ以外では)無為なことである。
運命アルカナ戦において、結城理くんの逡巡、もうすぐ終わってしまうという気持ち、何も変わって欲しくないという気持ちは、荒垣の死によって否定される。結城理くんが自らの想い・選択・行動を後悔したのが、あのラストの告別式で遺影を見つめていたシーンだと思いました。勿論結城理くんは責められるべき存在ではないのだけれど、恐らく多大なる影響を及ぼしたのではないか、それが次回作に繋がるのだろうな、と。

■変化を拒めないということ|
P3のテーマに置かれた「時間」の概念、刻一刻と流れるもの、それを拒むということ、を、否定される結城理くんの驚愕とわななき。10年間なにも変わらないまま生きてきた結城理の時が動き出したのが4月で、冒頭に示されたように「時は、待たない」ので、1秒前にさえ戻ることができない。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」「知らず、生まれ死ぬる人、いづ方より来たりて、いづ方へか去る。」
原作ゲームにはセーブデータがあってセーブロードも自由自在なので時間の意識はカレンダーに向いていました。しかし劇場版にはセーブもロードもなくて、進み続けるしかない。「あの時ああしていれば今のこの気持ちは存在していなかったのでは?」という結城理くんの後悔は取り返しがつかないし、同時に、自分のとった過去の選択無しには今の自分はないので、反省して乗り越えるしかない。(この問題を強引に解決する方法としての二次創作のループもの、周回プレイ設定は一先ず置いておく。)

■死についての各位の想い|
今作のラストでは尺の都合もあり結城理くんの後悔の念・死の認知しか描かれなかったのは残念と言うか、少しもどかしかったです。告別式の順平が代表と言う感じかな。
前作で結城理くんが言った「死ぬってそんなに怖いこと?」という言葉が喉につっかえた小骨のように気になっていました。死、というキーワードによって事故の記憶がフラッシュバックしていた前作とは異なり、積極的にタルタロス探索を提案する結城理くんには死という存在が些か遠くなっていたのかなと感じ、そこから仲間の喪失、再び身近に忍び寄った死を確認して、忘れてしまっていた死を思い出す(メメント・モリ)という過程が今回の主軸だったのかな、と思いました。死を忘れていたというよりも、自らの内に封印されていたデスがあまりにも身近すぎて恐怖を忘れていまっていた、という方がしっくりきます(これは原作をプレイしていた時に主人公に対する印象で最も強かったことでもあります)。第3作目ではデスが完全な形となって抜けて死への恐怖、喪失への怯えが出てからの綾時との問答に繋がるのかな~まだどちらのEDへ繋がるのかは全く予想がつきませんが……

そんなこんなでまだ整理できていなくてゴチャゴチャですみません。もうちょっと落ち着いて思い出したらまた書きます。
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